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共存の森ネットワーク事務局

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良質な2人の関係性がチームを良くする。

最近、友人を訪ねて富山県の氷見市へ向かった。彼は美大系の出身で映像製作ができる。わかりやすい武器を持っていない僕は、そのことを時に羨ましくも思っていたりする。
大学時代にはプロジェクトを共におこそうと試行錯誤したけど、結果お互いに力足らずでモノにはできなかった。現在、氷見市で地域おこし協力隊をしている彼を訪ねた理由は、今だったら生産的ななにかを一緒にできる気がしたからだ。

3泊の氷見滞在を経て、聞き書きと映像を組み合わせたその土地ならではの取組みの萌芽を得られたのはとても良きことでした。(弊団体のfacebookに動画が載っているから見てみてね)
一方で氷見滞在では、プロジェクトチームという概念に関するリアルな示唆も得られたので、今日はそのことについてです。


時に僕らは「チームはリーダー以上の器にならない」「チームビルディングがチームにとって最も大切。始まりが肝心。」「メンバー間での対面でのコミュニケーションが組織を育てる」などなど、チーム論を無数に議論しているように思う。どれも、確かにそうかもしれないという感があるのだけど、氷見で得た僕の最新チーム論は「2人で、チームは変わる!」ということなのだ。

彼と僕は顔を合わせれば、目の前にある素材を使って面白いことが起こせないかとなんやかやと話している。お互いにたぶん「上がりたい」気持ちが強いのだろうな。それは氷見滞在中も同じで、これとこれを合わせたらこうなるんじゃないか?とか、それだったらこうした方が良いよとか、あーだこーだと喋り倒していた。生産的議論かと問われても分からないけど、とにかく場の熱量は常に高いし、ポジティブな空気も充満するんだよね。それがきっと、氷見行きに一緒についてきてくれた学生にも伝播していたと思う。


1人でチームを変えられるひともいる。
だけど、多くの若者はそうじゃないと思う。僕はチームメンバーの熱量が高くないと、その総ての熱量を高めるほど自分のエネルギーを放出できない。それだけの自信とバイタリティが備わってないんだ。だから冷めたひとが多いチームでは、少しずつ冷めた空気が広がってゆく。
そうするとどうなるか。そのチームを盛り上げ直すために常人にできることは限られてくる。
その1、誰か1人の熱量を上げることから始める。
その2、熱量の高い仲間を新たに迎え入れる。
いずれにせよ、一度下がった熱を高めるのはとてもとても難しい。

ひるがえって、氷見ではそもそも彼と僕の熱が高く、それが伝わって全体としても目線を高くポジティブに日々を過ごせた。
2人という数はチームを無理なく少しずつ変えてゆけるのかもしれない。僕はそう感じた。

毎度毎度、あたりまえなことをそれらしく書いているブログだけど、今回もそうでした。あたりまえなことを重ねて言うと、良質な関係性がゼロかイチかという違いは大きいということ。本気で熱量のあるひとが一人しかいない時、そのチームに良質な関係性は1つもありません。2人いればそこに関係が生まれます。その関係に周りが感化されるってことだと思うんだ。決してその2人個々人のポテンシャルや意欲に感化されるわけではなく。“関係性”のなかにこそ、プロジェクト成功の種があるのだよ。

あなたがその2人のうちの1人になるためには、誰と握手するか。それが肝です。
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「書くこと」の意味をあらためて考えてみた

今回は少し個人的なテーマがメインになる。
僕にとって書くことの意味の話。
そして、書くことに関わること(それこそ聞き書きとかね)を価値として世の中に見せたいひとにとって、特に学生にとって、「わたしにとって書くことってこういうことなんですよー」を表現できねばならない時代がきていると思うという話。

順々に話していきますぞ。

まず、僕の話。聞き書き作品だけでなく、例えば地域を紹介する文章を書いた冊子を作ったり、高校生向けに聞き書き甲子園の魅力が伝わる言葉を綴ったりとか、こうしてブログを書いたり、伝統工芸品を紹介するキャプションを書いたり、「書く」という行為に溢れた毎日です。それはかなり自分で望んでそうなっているなぁと思う。なんで書くんだろう?と考えてみると、僕にとって書くことは「救い」がテーマだということに気づく。

少し時をさかのぼる。

高校生の頃、学校と自分の関係を繋ぐことができず、高校に通わない時期があった僕は当たり前のように友達も少なかった。毎日図書室に行っては本を読み漁って、高校生を対象とした論文コンテストなんかに書いては送り、書いては送りという、言葉に埋もれた日々だった。高校3年で担任となった先生に、書くことを肯定してもらい、そこからポジティブになれて聞き書き甲子園に参加したのだ。書くことで自分という存在を確かめることができて、書くことで世界とつながることができた僕にとって、書く行為は「救い」が軸になってきた。

冒頭に戻ろう。僕にとって書くことの意味はなにか?
それはきっと、書くことを通じて自分と同じように、変わっていくひとびとの伴走者になりたいのだ。書くことを通じて、自分の存在を確かめ、自分の思考に潜水して、自己開示をして、自分という領域を拡げてゆく。そんな変化をおこしていくひとの支えになりたいのだ。僕1人が書くというよりも、書くひとに寄り添いたい。だからきっと、文章作品を1人でつくることとかよりも、みんなと一緒に取材して編集して紙媒体をつくっていく、ということに軸を置いている。そしてその紙媒体を製作する過程にどれだけ見えない仕掛けを設けて、その変化を確かなものにできるか。そんなことが文章校正力とか編集力とか以上に大切なことだと思ってる。

そして、再び冒頭に戻る。
書くことに関わることを価値として世の中に見せたい学生にとって、「わたしにとって書くということってこういうことなんですよー」を表現できねばならない時代がきていると思う。これはなぜか。

世の中的にもライターを名乗る人々が増えているのは肌感覚で感じる。ブログに限らず、ソーシャル系のwebメディアやキュレーションメディアなどなど、学生ライターやボランティアライターっていうのも年々増えてるよね。おそらく今後も増えて続けて増えきった先に、言葉や書くことの価値が強く問われる時が来ると思う。要は「みーーんな書いてるし、プロもアマチュアも差がよくわからないし、webメディア多すぎるし、結局書くこととか言葉でみんななにがしたかったんだっけ?」というような。

そうなった時に、聞き書きを軸として続けてきたわたしたち1人1人は、なんて答えられるだろうか?

答えは1つではないし、万人を納得させられる答えも必要ない。だけど、私にとってはこうなんだよ、ということをいつまでも言えることに僕はかっこよさを感じるのだ。

紡ぐひと、まざりたいひと。

「やりたいことをやろう!」「できることから始めよう!」「ビジョナリーに生きよう!」

眩しい言葉が若者を囲む時代になっているように思う。人口減少、超高齢化、経済の衰え。幸せってなんだろね?と問われているだろう我が国では、世の中の課題をジブンゴトと捉えて、1人1人の人間によるアクションが社会を良くしていくんだぜ!という空気感が育ちつつある。少なくとも僕が高校生の頃は「マイプロ」という言葉を聞いたこともなかったし、課外活動に積極的に参加する雰囲気も今ほど濃くなかったなぁ。

僕が事業リーダーをつとめるondでも「地域の音頭を取る若者を輩出すること」を目的にしてて、今っぽいよねたぶん。その気持ち素敵!10代よ!アクションしようぜ!っていう事業なので、眩しい系事業です。

ゼロからイチをつくれたり、イチから10に持っていけたり、コンテンツをつくれる、紡ぐひとがondに参加しています。ond生はみんな、わたしはこう思うしこうしたいんです、っていうのがあるんだよね。いわゆる眩しい言葉を体現できてるひとたち。

でもさ、紡ぐひとを見て「楽しそう!わたしもまぜて!」って言ってくれる仲間って紡ぐひとと同じくらい、とーーーーっても素敵なひとなんじゃないかな。

共に紡ぎたい、まざりたい、ひと。このひとは「自分はこう思う!」っていう言語化できる想いは持ち合わせてないことが多くて、だから「しっかりしなよ」みたいに言われがちなんだけど、ひとに共感できるってそれだけでめちゃくちゃ才能だと思うんだ。

そして、リーダーである紡ぐひとは、いつも隣で楽しそうにしているまざりたいひとに救われてるんじゃないかなぁ。そしてそして、紡ぐひともまざりたいひともお互いを信頼できていると、もう、それだけでそのアクションは最高なんだと思う。上手く言えないけど、見てて本当に素敵なんだよなぁ。その場にずっといたくなるような、あったかい空気があるのさ。

これからのondではそんなまざりたいひとにもしっかり注目していこうと思っています。
紡ぐひとには、そんな存在を心から大切にしていくように伝えていきたい。

ond生と一緒に活動してる、瀬戸内の高校生を見てて思ったことでしたとさ。

グラデーションを表現したい。

当たり前だけど、移住しなくても地域とつながっていく方法はたくさんあるよなぁって再認識した話。聞き書き卒業生でも地域への移住者は結構いるようで、それはとても素敵なことです。なんと、ここ7年で全国の地域おこし協力隊も30倍に増加したようですよ。とても素敵なことだし、それはそれとして加速すべき動きなんでしょうが、ただ一方で、移住以外に地域と豊かな関係を紡ぐ方法はたくさんあるはずで。そのいろんな、濃かったり薄かったりする関係性(移住も含めて)を表現していくのが僕ら共存の森が行うべきことなんじゃないかなー。グラデーションある関係性を表現していけるといいなー。

それは決して移住する覚悟がないとかではなく、関係人口を日本中で活発にすることはリアリティがあることだし、そこに未来の本質を見出したい。土地に住むひとたちのコミュニティというもの以上に、その土地が好きなひとたちのコミュニティというものが、地域の財産とされる時代が来てると思うんです。

土地に根ざす者と根ざさない者が一緒に、風をおこす。
いいよね、そんなミラクルを僕は見たい。

例えば・・・ond生の1人谷端美紀は大阪出身で今は鳥取の大学に通ってるけど、鳥取県庁の皆さんともコミュニケーションを取っていて。そんなことを起点にしてぼちぼち面白いプロジェクトが美紀さんと鳥取を軸に始まりそう。もう少し経ったら正式リリースできるかな。

例えば・・・秋田では「のんびり」の皆さんと一緒に、東京の学生が木版画家にまつわるプロジェクトを現在実施中です。学生たちは、知らなかった象潟という町や池田修三さんという画家を知ることができたし、そこにプロの「のんびり」がいることで僕ら学生だけでは言語化できないもやもやを表現してもらっているような気がします。

鳥取県庁とか「のんびり」のような、地域住民とはまた別の方々ともつながることで、持続的にその土地と仲間でいられるんじゃないかな。そんな大人がアウトプットの質を高めるサポートをしてくれて、地域のひとからも認められるキッカケになったりして。

僕ら×プロ×地域住民の構造をいろんな地域で展開していけたら良い。
地域の仲間になるってことに対して、僕はもっとずっと軽やかでいたいんだ。

意欲とコンテンツの密接な関係

今週末、全国から共存の森学生メンバー30人が集まる全体合宿がある。
聞き書き甲子園スタッフ、共存の森づくりメンバー(農山漁村での交流・地域づくり活動)、ond生、弊団体インターン生、そして僕ら若手理事といった面々です。弊団体に関わる学生達の意欲やコミット率は、外の人が評価するほどは高くないと思ってる。多くのNPOで、弊団体より主体的な学生の活動を展開しているなぁと感じるんだよね。その感情は、焦りや悔しさ、自己嫌悪を伴ってやってくる。「こんなところで負けてられないぞ」だとか「あのNPOの経営者みたいにもっと頑張ればいいだけなのに、どうしてもっと頑張れないんだよ自分」だとか。そして、そのマイナスな感情は時にメンバーに向く危うさをはらんでいる。「なんでみんなもっと頑張らないんだ、どうしたら頑張ってくれるんだろう」という感じだ。

3年ほど前までは僕もそんな危うさをバリバリに持っていた。だけどある活動を境にしてその考えはかなり手放せたように感じている。その考えを手放した先にあった次の思考が、メンバーの意欲はコンテンツの中でしか向上しない、ということだ。
どうしてもっとみんな頑張らないんだよ思考だと、メンバーとサシ飲みしてみようだとか発破をかけようだとかフレームワークやらせてマインドセットさせようだとかそんなことを考えがちになる。こんなことばっか考えていると、こっちが正しい側(救う者)であっちが間違っている側(救われる者)っていう対立関係ができてしまう気がするんだよね。それが一概に悪いとは言わないけどそれらは附録みたいなもん。メンバーの意欲はコンテンツの中でしか向上しない思考だと、「まずは自分が楽しめるコンテンツを創ろう」が大前提となる。他に一緒に活動してくれる仲間がいなくても、とにかくめちゃくちゃおもろいやんけって自分で思えるものをつくってみる。で、これはなかなかおもろいぞってコンテンツが生まれたらそこに仲間を誘ってみる。別に新規事業じゃなくてもこれは転用可能。

例えば聞き書き甲子園スタッフの意欲が上がらないなぁって現状がある。いや、そもそも自分は意欲的に動いてるのか?自分は楽しんでるのか?ってことを振り返って自分が楽しめるものをつくる。要は人のこと言う前にてめえがやれよっていう話。僕だったらデザインとか写真とか言葉の力が好きなので、例えば甲子園の次年度ポスターを美大とコラボして作ろうってことを企画する。(ちなみに先日某美術大学にこっそり可能性の話としてこのようなことを相談して断られたが、諦めてないぜ。いずれ実現させてやるぜ。こっそりとひっそりと進めているリアルアイデアでした。)で、そんなことを企画して実際に動きだせるぞってなったら、デザインとかアートとか興味ありそうなスタッフを誘っちゃう。めちゃくちゃ単純な話だけど学生の意欲が低いってのは基本的にそれが面白くないから。だったら自分からまずはおもしろがればいいじゃんっていう、まあ当たり前のことだね。当たり前なんだけど、一人で動き始めるのは怖いし、メンバーの意欲が低いのがめちゃくちゃ気になっちゃうから、なかなか冷静になりにくいところではある。

そしてこういうことを言っていると、ある疑問を投げかけられる。「そんなに一人でコンテンツつくり始めて、チームのなかで浮きませんか?一緒にやる仲間でてこなかったらどうします?メンバーが途中参加だと受け身になりません?」って感じ。
まず、その程度で浮くチームだったらやめてやるか、徹底的に浮き続ければ良い。出過ぎた杭は打たれないってやつだ。一緒にやる仲間がでてこなかったら一人でやりきるか、自分の考えたコンテンツが面白くなかったと受け入れて改良するかどっちか。ゆっくりじっくりやればいいんだよ。最初は受け身の可能性が高い。だけどそこはやり方次第じゃない?(以前書いた『風土記を目指して』も参考にしてほしい)

長々とどうしてこんな話をしたかと言うと、今回の全体合宿。史上最も頭を悩ませたんです。こんなプログラムどうかなって思い付いたものを頭でイメージしても全然良いイメージができなかった。昨日ふと気付いたんだけど、なんで頭悩ませていたかって僕がいつのまにか「どうしたらみんなのやる気あがるんだろうか」ってことを、合宿内でのワークや議論だけで解決しようとしてたからなんだよね。正しい僕と間違ってる皆の構図になりかけてたのかもな。自分きもちわるいなぁ。だけど、ハッとして冷静になって、ひとまず、来年の4月どんな風になってたら共存が最高に面白いかなってことを箇条書きにしてみた。そして、そうなるために足りないコンテンツをどうやったら自分は作れるかなってことを考えてみた。考えてみたらなかなかおもろいぞって感じになってきたんだ。合宿ではそんな話ができるといいな。一緒にやらない?のスタンスで誘って、それを一緒におもしろがってくれるひとがいたら最高だ。全然面白くないわ、って言ってくれるひとがいたらなおさら最高。

自分が当事者になること。どんな立場であっても、そこを軸にやっていけたらいいよね。